2011年12月23日

石道寺、鶏足寺1126

登山道を降りてくると石道寺と鶏足寺の中間にでてきます。 
b1126749.jpg
 
前回は天気が悪く、時間もなかったので石道寺の紅葉はパスしましたが、久しぶりに、あのたおやかで艶めかしい十一面観音像にお会いしたくて石道寺に向います。
一面観音像1.jpg
湖北いいことホクホク

多くの観光客が鶏足寺と石道寺を行き来しています。
 
そう言えば、己高山六地蔵で会った金沢の御夫婦の奥さんは十一面観音を巡るのが好きなので、降りた後に石道寺に寄りたいと言う話をされていました。
a1126744.jpg   
 
いただいたリーフレットによると石道寺の縁起は以下の通りです。
 
旧石道寺は726年、延法上人開基で、のちに行基が仏像を納めたが、焼失した。
 
後に、最澄が仏像を納めて己高山石道寺と名付け、比叡山の別山とした。
b1126771.jpg
 
その後国家鎮護の祈願所として栄えたが、徐々に寺運衰えて廃絶寸前となったが、京都護国寺の源照上人により1354年に再興された。ここに天台宗を廃し、真言宗に改められます。
b1126781.jpg 
 
戦国、徳川の代になっても、時の治世者の信仰を集めたが、明治22年に仁王門焼失、29年には山津波のために庫裡が流失するなどして無住の寺となった。
b1126791.jpg
 
旧石道寺は現在より1kmほど東の三谷川に沿った山間にあったものを大正三年に旧石道寺の本堂(明治2年再建)と厨子と共に移築したもの。
 
同時は現在、真言宗豊山派に属し、近江十一番、伊香西国三十三番の札所として大衆の信仰を集めている。
b1126785.jpg 
 
旧石道寺跡には跡地を示す碑と苔むす幾つかの墓石が、またその北の高尾山の中腹には石道寺の前にある神前神社の前身である高尾寺跡地があり、千年の樹齢を持つ神樹の杉があるのだそうです。
 
今回は逃しましたが、再度拝観に来た時には是非、跡地までお参りしてみようと思います。
b1126784.jpg
 
十一面観音様は平安中期の作と伝えられ、欅一木彫刻で極彩色、像高173.2cm。
 
その眉目流麗な御尊顔は、かたく結ばれた唇にほのかにのこる紅の色と相和して、ひときわ衆生済度の慈愛にあふれ、拝する人の心をいつまでも和やかに温めてくれます。
 
・・・自分もこの穏やかな観音様の暖かさとその紅のせいか不思議な艶めかしさに魅かれます。上のリーフレットの説明のいい表現だなと思います。
b1126800.jpg
 
さらに説明は続きます。 

腰をわずかにひねるかの様にして、右足の親指をあけられたお姿はまことに印象的で奈良総国分尼寺法華寺門跡や小浜の鳳聚山羽賀寺十一面観音と共に数少ない平安期の造形美を現しています。
b1126802.jpg
 
十一面観音にゆっくりお参りして、さあ鶏足寺に向います。
 
鶏足寺については、己高山の頂上付近に鶏足寺跡があり、この地の飯福寺跡を鶏足寺跡と称しており、なかなか理解しにくい・・・
b1126804.jpg 
 
2009年に高月の「観音の里」のお祭りで歩いた時に己高山の寺群の存在を知ったのですが、その時の記事を編集して再掲します。(「観音の里」(2009.8.9)

Wikipediaおよび滋賀大の調査報告を参考にしたものです。
b1126816.jpg
 
「木之本町の東方に位置する己高山(「こたかみやま」、あるいは「こだかみやま」)の山頂付近および西麓には、古代から中世にかけて多くの寺院があり、天台系山岳仏教の聖地であった。
b1126830鶏足寺.JPG
 
奈良・興福寺に属する寺院を書き上げた『興福寺官務牒疏』という資料(1441年)には、己高山の五箇寺として観音寺、法華寺、石道寺、高尾寺、安楽寺の名がある。
 
このうち中心的寺院が観音寺だったようで、観音寺の別院として鶏足寺、飯福寺、円満寺が挙げられている。
b1126841.jpg
 
これらの寺院は近代以降すべて山麓に下り、または廃絶している。

1407年と奥書のある『己高山縁起』によれば、近江国の鬼門(北東)に位置する己高山寺院群は奈良時代に行基および泰澄によって開かれたという。
b1126837.jpg
 
己高山の中心寺院であった観音寺の別院鶏足寺は伝承によれば、735年、行基によって開基されたものである。
 
いったん荒廃したものを799年に最澄が再興したという。1269年、下野国・薬師寺の慈猛が、それまで天台・真言宗、兼帯であったのを真言宗豊山派に改宗した。
 
1933年(昭和8年)焼失し、廃寺となった。
b1126862.jpg
 
己高山山麓の古橋地区の輿志漏神社(よしろじんじゃ)境内に薬師堂、大日堂のほか、己高閣(ここうかく)、世代閣(よしろかく)と称する2棟の収蔵庫が建っており、鶏足寺や関連寺院に伝わった仏像などが収蔵されている。
 
現在山麓の古橋地区から徒歩15分ほどの山中の旧飯福寺跡が鶏足寺跡とされており、秋の紅葉の名所として知られている。」
b1126888.jpg
 
上記の説明によると以下のようなことかと・・・
 
己高山の頂上付近にある鶏足寺跡というのは寺域から言うとさらに広大な観音寺域の中の一寺院である鶏足寺が近年まで残っていたために、唯一跡地が明確となっている。
 
その他の寺域は、埋もれた状態となっているものの、鶏足寺をはじめとした別院を含んだ観音寺全体が己高山の山全体を占めていたということなのではないでしょうか。
b1126913.jpg
 
五箇寺のその他の法華寺、百道寺、高尾寺、安楽寺が周辺の山麓や隣接する山に建立され、この周辺が天台宗仏教の一大拠点になっていたということのようです。
b1126920.jpg

飯福寺に関しては、立て看板が立っており、下記の説明があります。
 
「飯福寺は奈良時代の行基の開基とされており、一時南都興福寺の末寺となる。
b1126927.jpg
 
十五世紀に法印実盛上人により隆盛となり、浅井氏、京極氏の厚い庇護を受けた。
 
江戸時代においても寺領を与えられ、勢力を保ったが明治時代の廃仏毀釈により寺院の規模を縮小され廃れた。
b1126950.jpg
 
その後地元民の努力により整備され現在の姿となっている。」
 
飯福寺跡が何故「鶏足寺」なの?ということの説明は見つかりませんでした。
 
近年に焼失した鶏足寺の名前を、同じ観音寺の別院であった山麓の飯福寺跡に冠したということなのでしょうか?
b1126976.jpg

ネットでの観光案内を見ると飯福寺は鶏足寺の別院との記載があります。
 
強引に推測してしまうと、観音寺跡地は鶏足寺の跡しか確認できないことから、その史実に関わりなく、観音寺群を代表する名前として鶏足寺が使用されているのではないか?
 
その鶏足寺(=観音寺)の別院としての飯福寺跡地を広い意味で鶏足寺と称したと・・・
b1126990鶏足寺.JPG
 
と勝手なことを考えつつ、なかなかいい写真が取れないまま陽が落ちて行きます。
 
前回は紅葉の盛りを過ぎた感じだった上に、天候不良であまり印象が良くなかったのですが今回は天気はいいのですが、たどり着くのがちょっと遅過ぎて、陽光に恵まれないと言う感じになりました。
 
いつか山登りとセットでなく、朝からお参りしてみようと思います。
b1126993.jpg
 
空き地に駐車した車が迷惑をかけたのではと少々心配しながら歩いていましたが、自分の車の横で、テントを用意して食事の支度をしている人達がいました。
 
明日の朝に山に登るのだそうです。どうどうと車を停めて良かったのか・・・と、少々安堵して敦賀に帰りました。
posted by くまじい at 19:48| Comment(0) | 花風景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月19日

己高山1126

週末が来ると天気が悪化する最低の周期に突入して、なかなか紅葉狩が進みませんでしたが、11月26日(土)に己高山、石道寺、鶏足寺を楽しんできました。

b1126783.jpg
<石道寺>
 
11月26日の週は天候の周期が少しずれて、金曜日までぐずついていましたが、土曜日は雨はなさそうです。 

b1126843.jpg
<鶏足寺>
 
今年の紅葉は白峰ウォークから始まり刈込池、夜叉が池、野坂、青葉山と、だんだんと南下して行こう。その後は金剛輪寺以外の湖東三山、行けたら三井寺、その後一気に京都・・・と思っていたのですが。
 
白峰ウォークは白山スーパー林道を開門前の早朝に歩くコースにエントリーして楽しみにしていたけど、仕事で断念。
 
幻の刈込池で書きましたが、刈込池は天気バッチだったけど、崖崩れで、たどり着けずに赤兎(途中まで)に変更しました。

K1802.jpg
<刈込池:「紅葉名所2011年(Walkerprus)」来年こそ・・・>

夜叉が池は天気が悪い日が続いて行けない土日が続き、おそらく紅葉はもう遅いだろうと・・・
今日は野坂かな・・あるいは己高山、鶏足寺のセットで行くかと決意して・・・
 
外にでると、おっと、野坂が白くなっています。うーん、野坂の霧氷も捨てがたい・・・でもまあ今日は紅葉優先だと8号線を南下します。

a1126004.jpg
 
天気はいいのですがなんとなくガスっているというか雲が低いと言うか・・・
 
山にガスがかかるものこれまたいい雰囲気・・木之本の手前でつい車を止めて一枚。

a1126017.jpg

己高閣の駐車場にたどり着くとまだ時間が早くてチェーンが張ってあって、中に入れません。登山口に近づいたところで道端に車を停めようかと思い先に進みますが、工事中につき、通行止めの看板が・・・

a1126018.jpg
 
己高閣に戻り、事務所でお願いします。
 
「登山の人は長くなるからここに停めてもらっては困る。ここはびっしり車が停まるので迷惑だ。」とのこと、どうすればいいでしょうか?と・・・

a1126029.jpg
 
登山道に向う、田んぼの脇に空き地があるからそこに停めなさいと・・・「でもさっき通ったら関係者以外、駐車禁止になっていましたが・・」「邪魔にならないところに停めておけばいいから」

a1126053居張の滝2.jpg
<居張滝:前に来た時は水が枯れていて滝には見えませんでした。>
 
空き地は車が悠々一列に10台位停められるスペースがあります。でも、邪魔にならないところって、わからない・・・ままよと、出入りに影響ないようにどうどうと真ん中に停めてしまいます。
 
まあ、屋台だしている地元の人が運搬車を一時的に停めるためだと思うので、あまり問題にはなるまいとの思いでした。

a1126050居張の滝.jpg
<しっとりした岩肌の脇をちゃんと滝してました>
 
なんと通行禁止の道は問題なく車が通れそうです。これならこっちまで来て登山口に停めてしまえばよかったか・・・

a1126055.jpg
<写真入りの熊注意は迫力ある・・・と、びびる「くま」>
 
それにしても、紅葉の人出で大変なことわかるけど、登山者に冷たすぎる態度・・・信仰の山にあるまじき・・とまあ勝手なことブツブツ言いながら歩きます。
a1126060.jpg
 
周りの山がガスで霞んでいて、周りの空気も湿度十分と言う感じです。カメラのレンズがじっとりしていて、曇りがちになります。
a1126074.jpg
 
登山道の紅葉は黄色から褐色と言う感じの葉が多く、落ち着いた感じです。

a1126087.jpg 
 
時間が早かったせいか、登山者はいませんでしたが、1人、2人とぽつぽつと抜いていく人がでてきました。10人程度の集団を入れても総勢15人程度でしたか。
a1126105.jpg 
 
ほぼ同じ標高の野坂に比べるとすこぶる人が少ない。きっと頂上の展望がよくないので人気が少ないのだと思います。

a1126107.jpg  
 
12月に入って野坂に登ましたが、雪が降ったこともあり、多くの人が押しかけていました。人気に随分差があるようです。

a1126111.jpg 

自分にとっては己高山は山歩きと鶏足寺跡地と紅葉を楽しめる絶好の条件の山で、今回はおまけに雪まで楽しめたのだから充分満足できたのですが・・・

a1126144.jpg 

山の端から朝日が射してきてだんだんと紅葉が輝いてきます。

a1126161.jpg  
a1126188.jpg a1126183.jpg 
a1126190.jpg 
a1126193.jpg 
 
六地蔵にたどり着きます。

六地蔵の廻りは昔なにか建造物があった跡だったのでしょうか?紅葉が一段と綺麗です。ちょうどう六地蔵の向こう側から朝日が昇りつつあり、一面がキラキラ輝き始めます。

a1126257.jpg  
a1126260.jpg 
 
興奮して写真を撮りますが、逆光気味で、なかなかうまく行きません。

a1126197.jpg 
 
写真を撮っているうちに二人登ってきます。六地蔵見ても感激は少なそう・・・金沢から若狭の山を求めてきたけど、なぜか己高山に変更して登ってきたとのこと。
 
福井や滋賀の山を大分登っている御様子でした。

a1126201.jpg 
a1126217.jpg a1126218.jpg 
a1126226.jpg  
a1126231.jpg  
a1126239.jpg  
a1126247.jpg a1126248.jpg 
a1126250.jpg a1126253.jpg 
a1126267.jpg 
a1126277.jpg 
a1126287.jpg  
 
六地蔵を過ぎると緩やかな尾根道歩きになります。
a1126295.jpg 
a1126297.jpg 
a1126305.jpg 
 
牛留のある六合目当たりにくると少し展望が開けます。

a1126323.jpg 
a1126329.jpg 
a1126334.jpg
 
六合目を過ぎると雪が目立つようになりました。
 
金沢のご夫妻と抜きつ抜かれつ話をしていると、下から見上げたら白い物が見えたから雪があるなと思ったよとのことでした。

a1126341.jpg 
 
山を見上げていたはずですが白くなっているというのは気が付きませんでした。というより登る前にどれが己高山かというのを確認していなかったのが事実ですが・・・

a1126344.jpg 
 
それにしても紅葉と雪が楽しめるなんて、こんなに嬉しいことは無い。

a1126350.jpg 
a1126352.jpg 
a1126363.jpg 
a1126371.jpg 
a1126378己高山.JPG

鶏足寺跡は一面の雪の中でした。表示はないのですが、8合目くらいに相当するのでしょうか?あるいは9合目くらいなのかしら?

a1126382.jpg 
a1126386.jpg 
a1126388.jpg 
a1126399.jpg 
 
ここから頂上までは完璧な雪道になります。頂上付近の急登がちょっと心配でしたが、ロープを活用してなんとか頂上までたどり着きます。

a1126404.jpg
 
頂上は火を使っての昼食をしている人が多い中、立ったままオニギリ食べて、お先に失礼します。
 
前に迷った道だし、今回は雪があるので大丈夫かしらと不安を感じつつ・・・

a1126411.jpg 
a1126416.jpg 
a1126422.jpg 
a1126426.jpg 
a1126489.jpg

前に登った時に判り難いと教えられた分岐は、間違った直進の方が行き止まりになっており、右折する方に標識がありました。
 
でも標識の「石道寺」の表示が取れていて字が判読しにくくなっています。
 
標識が荒れていたり、壊されていたりする例が多い気がします。動物の仕業なのか、心ない登山者がいるのか・・・

a1126492.jpg
 
己高山のように高圧線の走っている山は電力会社の点検用の道と一般の登山道の区別が付きにくく、迷い易い気がします。
a1126572.jpg
 
実はこの先にも右に曲がる場所があります。以前は彦根の山岳会の方達と歩いていたの意識しなかったのですが今回、気が付かずに、行き止まりのために渡してあった棒をまたいで直進してしまいました。

a1126599.jpg
 
今回は雪があったため、踏み跡が消えていて、あぶない、あぶないと引き返すと右に曲がったところに標識がありました。

a1126634.jpg
 
おいおい、標識は曲がり角においてよね。と呟きつつ歩きます・・・よっぽどこの山では自分は迷い易い様に出来ているみたい。

a1126643.jpg
 
その後は迷う場所もなく、紅葉を楽しみながら下って行きます。
a1126672.jpg 
a1126699.jpg 
 
石道寺、鶏足寺の分岐に到達、久しぶりの石道寺の十一面観音様にお参りに向います。

a1126729.jpg
posted by くまじい at 00:30| Comment(0) | 山紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月12日

水の国、水の森

「遠敷」で書きたくて、はみ出した続編になります。瓜割の滝の写真は2005年のものです。
 
夢枕 獏原作、岡野玲子作『陰陽師』に「鵜の瀬」が登場します。原作は読んでおらす、漫画化されたもののみの知識ですが・・・

第8巻「太陰」は副題に「安部清明 天の川に行きて雨を祈ること・・・」とあり、概要は清明が雨乞いのために博雅を伴って、「瓜割の滝」、「鵜の瀬」から吉野までたどるものです。
陰陽師第8巻太陰.jpg
<Amazon.com>
 
若狭は『水の国』と呼ばれていること、そのうちでも、天徳寺の境内の「瓜割の滝」周辺を『水の森』と呼ばれていたことから雨乞いの旅が瓜割の滝から始まります。
 
鵜の瀬から吉野の玉置まで直線状に水の道が走っており、その直線を2分する位置に東大寺があるなど、興味深い話が満載です。
 
東大寺だけでなく貴船、上下賀茂、伏見、春日大社などがその直線状にあり、その水の道をたどって吉野に向う話になります。
b1010078.jpg

あらすじは下記の通りです。
 
日照りに苦しむ京の都では陰陽寮(おんようりょう※1)において、清明の先輩天文博士である保憲による五龍祭および、僧寛空による神泉苑(※2)における請雨経法等の雨乞いの祭祀が執り行われようとしています。
神泉苑には竜神(善女竜王)が住むといわれ、西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになったという。
b1010091.jpg
 
公式な場で計画されている雨乞いの祀りの裏で、天皇より清明に対して雨乞いの勅書が博雅を通じて届けられます。

清明は保憲の下に瓜(後に瓜割の滝で冷やした瓜の一つであることが判ります。)を届け、五龍祭を手伝えないことを謝り、瓜を献上します。
 
保憲の元を辞した清明は、博雅を伴い「水の国」の「水の森」に向います。
 
ここで、「水の国」は若狭を表し、「水の森」は天徳寺の境内に湧く駒清水(瓜割の滝)を指します。
20051009DSCF0056瓜割の滝.jpg
<瓜割の滝2005年10月9日>

天徳寺は泰澄の開基、天暦の年代、村上天皇の在位に旱魃があり、天徳と改元され、その時に天徳寺は勅願寺となります。

天徳寺には泰澄が宝篋ヶ山の頂上で刻んだという馬頭観音が祀られています。泰澄は、彫り上げた馬頭観音菩薩を神水のある霊地に草庵に安置しようと、神水を探し求めて廻ります。
20051009DSCF0084r.jpg
<天徳寺 2005年10月9日>
 
目指す神水をがなく、あきらめた大師は志を捨て、獄の岩の上に尊像を安置して悲しみ嘆いていました。するとそこへ、南方の二本の古木の間より頭に白蛇を頂いた龍馬が飛来しました。
20051009DSCF0048.jpg
<瓜割の滝2005年10月9日>

『我は北天竺の八大龍王なり。観世音菩薩の御威光と大師の御徳を感じ、我が北天竺の水を移して永くこの泉に留まり、天下泰平、五穀豊饒を祈るなり・・・』

お告げがあり、彼方の岩窟に入ったとたん、四方に神光が放たれ大地は鳴動し、岩が破れて神水が湧き出ました。この神水をもって駒清水と名付けられたのです。
20051009DSCF0061.jpg
<瓜割の滝2005年10月9日>

駒清水の向いにある大きな岩を龍王岩と云い、八大龍王(水ノ森大神)が鎮座して駒清水を見下し守護していると伝えられ、この一帯を水ノ森と名付けられています。
 
清明は駒清水で冷やされていた瓜を6つ受け取り、鵜の瀬、貴船、室生の龍欠、丹生川上と龍神に祈りを捧げつつ吉野まで歩き、京に雨をもたらせます。
20051009DSCF0069 (2).jpg
<天徳寺 2005年10月9日>
 
水の国、若狭から吉野まで水の道で連なっているという発想はお水送りから想起されたものなのかもしれません。でもその広大なスケールの構想は面白くて、つい自分も清明の跡をたどってしまいたくなってしまいそうです。
※1陰陽寮:律令制において中務省に属する機関のひとつ。占い・天文・時・暦の編纂を担当する。

※2神泉苑:平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営され、天皇や廷臣の宴遊の  場となった。
 
 
【追記】:福井新聞に『ふる里百景』と言う連載があります。日にちは忘れたのですが、同連載のNO.15 に名田庄の部落にある土御門館跡の記事がありました。
 
安部清明を始祖とし、全国の陰陽師を支配する土御門家が応仁の乱の戦果を避けて名田庄に移り住み、120年にわたり、この地で朝廷や将軍家の占いを行い、天文造暦編纂の地としたのだそうです。
 
下記を参考にさせていただきました。
夢枕 獏原作、岡野玲子作『陰陽師』
福井県教育研究所公式サイト
関西電力株式会社原子力事業本部「新わかさ探訪」
posted by くまじい at 00:10| Comment(0) | 史跡巡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月11日

Eric Clapton & Steve Winwood

11月28日(月)にEric Clapton & Steve Winwoodの金沢公演がありました。
 
21日の週には大阪で公演があったのですが、会場が大きいこと、大阪人の乗りについて行けそうもないなとビビって・・・テレビで金沢公演の宣伝が流れて、これはいいかなと先行予約に申し込みます。 まだ5月のことでした。
 
少し間をおいて、チケットが到着、石川県総合スポーツセンターのアリーナ席を取り囲む感じの2階席の最後列でしたが、舞台からは比較的近い席でした。
2011-11-28 21.24.35.jpg
 
顔は判らないけど、人差し指大位の二人が演奏している姿が見えて、まあ満足でした。ただ、通路を盗撮監視の係り員が終始、動き回っているのが背中に感じられて、不快感もありましたが。

後ろの方に空席があるのにびっくり・・・まあ、9割5分の入りというところ?演者から見たら気分悪いだろうな、と、気になります。

そのせいか、クラプトンはメンバー紹介以外には最初の「コンニチワ」と曲の合間の「サンキュウ!」しか言わずに淡々と曲を続けて行きました。まあ、言葉が少ないのは不機嫌というより、クラプトンの性格的なものなのだと思います。
 
オープニングはブラインド・フェースの「Hard To Cry Today」で、一気に「くま」のテンションが120%に到達します。


 
たった一枚のブラインドフェースのアルバム・・・クリームの栄光を引きずって延々とドラムソロを演ったジンジャー・ベーカーがガンだったと、あいつさえいなければ、と勝手に思い込んでいて・・・実態は知らないのですが・・・
 
その後はクラプトンとウィンウッドの曲を交互に演奏して行きます。クラプトンの曲と言っても、JJケールの「After Midnight」、「Cocane」等の様に、クラプトンでヒットした曲、という言い方が正しいのかもしれません。


 
コンポーザー兼シンガー兼マルチ楽器プレーヤーのウィンウッドはほとんどが自作の曲が続いて、自分には馴染みのある曲ばかりで「くま」の興奮は続きます。
 
聴いたことのない曲もありましたが、あれが最近の作なんだろうって、言い換えると最近あまり曲は造っていないのかと・・・
 
それにしても、クラプトンのヒット曲のイントロが始まると若干の歓声と拍手があがりますが、ウィンウッドの時にはシーンとしている・・・自分だけ、「おーっ!」とか「キャーッ」とか言って浮いてる感じがしてきます。
 
ウィンウッドが「Georgia On My Mind」唄ったときだけ、唯一歓声があがりました・・・註書に産経新聞の記事を載せましたが、クラプトンはこの曲でウィンウッドを知り、クリームに入れたかったのだとか・・
 
休憩後に「Crossroads」があって、これはもうイントロから盛り上がって・・・


 
上の映像は2007年の時のライブ映像ですが、ギターで頑張ってる長髪を束ねた太めの男はスーザン・テデスキの旦那のギターの名手デレク・トラックスです。
 
興奮状態継続の「くま」はスペンサー・デービス・グループの「Gimme Some Lovin'」が始まると失神状態に。


 
エンディングはなんだったか忘れてしまったのですがやはりウィンウッドの曲で終了。「Can't Find My Way Home」だった気がするのですが・・・



観客もこのころには盛り上がりを見せて来て、アリーナは立ちあがって、アンコールを要求しています。
 
自分は、「そう言えばDear Mr. Fantasy」が無かったな・・・」と考えていた矢先に、アンコールにイントロが流れます。


 
「えっ、これでは乗れないのでは・・・」と心配しましたが、案の定立ちあがった人達はしかたなくゆっくり、身体を揺すっています。
 
そのまま「Cocaine」に移行して、少し会場が救われて、終了。


 
「Cocaine」もアンコールの乗りには今一の感が・・「After Midnight」か 「Crossroads」だったんじゃないかなど余分なことを考えつつホテルに帰ります。
 
11時までやってる飲み屋を教えてもらって、地酒で余韻を楽しみました。
 

※【註】神様が「憧れの人」とリラックス共演 2011.12.7 産経新聞ニュース記事
 
≪エリック・クラプトンとスティーヴ・ウィンウッドの来日ツアー≫
ロック音楽の黎明期である1960年代から第一線で活躍する英国の2人の大物、エリック・クラプトン(66)とスティーヴ・ウィンウッド(63)が11月17日から今月(12月)10日まで来日ツアーを展開している。
クラプトン&ウィンウッド.jpg
 
60年代末、スーパーグループのはしりと言われたバンド「ブラインド・フェイス」で共演した2人が2008年2月、ニューヨークで催した3日間限りの再会公演を日本で再現した訳だが、ウィンウッドを尊敬し続けるクラプトンのリラックスした演奏と、通を唸(うな)らせるウィンウッドの名人芸が聴衆を圧倒した。
 
<我が心の「歌声」> 
米黒人ルーツ音楽、ブルースの求道者として、欧米では同業者も憧れるクラプトン。
 
米の権威ある音楽誌ローリング・ストーンが先ごろ発表したベテランロックギター奏者ら約60人が選んだ「ギタリストベスト100」でも、クラプトンは1位のジミ・ヘンドリックス(1942〜70年)に次いで2位だった。

そんな彼の憧れがウィンウッドなのだ。2007年に欧米で出た初の自伝で彼は、1960年代に組んだハードロックトリオ「クリーム」にウィンウッドを加入させたかったと告白。
 
「彼がライブハウスで歌った『我が心のジョージア』に大いに感動した。
 
当時彼は15歳。だが目を閉じて聞けば、まるで(この曲を有名にした)米大物ソウル歌手、レイ・チャールズが歌っているようだった」と絶賛するなど、今も彼に憧れ続けていることを示す記述が少なくない。 
 
<譲り合う演奏> 
そんな米黒人ルーツ音楽を探求し続ける2人の11月22日、大阪城ホール(大阪市中央区)での公演を見たが、1曲目に披露した「ブラインド−」時代の「泣きたい気持ち」(69年)で2人はストラトキャスターを抱えて登場、聴衆が沸く。
 
クラプトンがストラトを手にしたきっかけが、実はウィンウッドが弾いていたから、というのは有名な話だ。 それを示すかのように、互いに譲り合うような2人のギター演奏は実にほほ笑ましい。
 
その後も「グラッド」(70年)や「ディア・ミスター・ファンタジー」(67年)など、ウィンウッドが67年に組んだバンド「トラフィック」の楽曲も披露される。
 
ウィンウッドの知的なキーボード演奏とソウルフルな歌声が冴え渡る。米黒人ルーツ音楽に根ざした実験的なサウンドは今もユニークだ。 
 
<偉業を称える姿勢> 
そして中盤、公演のハイライトといえる「我が心のジョージア」をウィンウッドがオルガンによる弾き語りで熱唱した。彼がバンド「スペンサー・デイヴィス・グループ」時代の66年にスタジオ音源で発表したが、この歌声を一番聴きたかったのはクラプトンに違いない。 
 
終盤には2人でジミヘンの「ヴードゥ・チャイル」(68年)までカバーするなど、互いに超大物になっても先人の偉業を称える姿勢を忘れない。 
 
クラプトンは「ワンダフル・トゥナイト」(77年)など十八番も披露したが、ウィンウッドにメーンを譲りつつ、堅苦しい求道者のイメージを捨て去り、自らの演奏を大いに楽しんでいるようだった。(岡田敏一/SANKEI EXPRESS)
posted by くまじい at 11:34| Comment(0) | 音楽話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月10日

遠敷明神

若狭彦神社の若狭彦神、若狭姫神は土地の名前から遠敷明神とも呼ばれます。(10月10日の続きです。)

若狭彦神、若狭姫神の二神は714年9月10日に遠敷郡下根来村白石の里に「降臨」※したとされています。
  
両神が現れた白石の里に若狭彦神社が創建されますが、翌715年9月10日に現在の彦神社の地に遷座されます。
a1010622.jpg
<若狭彦神社>

721年2月10日、若狭彦神社より分祀して若狭姫神社が創建され、総称としては若狭彦神社の上社(彦神社)、下社(姫神社)となります。
a1010653若狭姫神社.jpg
<若狭姫神社>

若狭彦神社が遷座された後、二神の降り立たれた白石には、若狭彦神社の「境外社」(主祭神を祀る境内の外にある小規模な社を言う)として白石神社が備えられます。
a1010126.jpg 

白石神社と若狭彦神社、姫神社の位置関係は下図のとおりです。(再掲)

前回の神宮寺が 若狭彦、姫神社(遠敷明神)の神願寺として建立されていますからこの一帯全体が広く遠敷明神の神域としてあったということになります。
小浜市遠敷地図2.jpg

鵜の瀬にある白石神社は白石大明神の登りが目立ちますが、鬱蒼とした森の中に、立派とは言えない社がポツンとたっているだけです。

神社の境界がどこになるのかもよくわかりませんでした。
a1010057.jpg
 
社殿そのものは最近のもののようで、さらにそれを仮設のような板張りの外壁が囲っています。
 
正直いうと厳かというよりは夜には近づきがたい雰囲気というか・・・畏れ多くも口にしてしまうとちょっと気味が悪い雰囲気・・
a1010128.jpg

周りのこま犬や樹の根は苔で覆われていて、良く言えば歴史を感じさせると言うところですが、人の手が入っていないことがあきらかな感じです。
a1010131.jpg

「若狭デジタル文化財」(小浜教育委員会)に白石神社の周囲の椿の森についての記述がありました。

「白石神社の境内は、大小の椿の木が群生している。樹齢1,000年以上たつという根廻り4.3mのものが代表的な古木となる。
a1010140.jpg

その他に1m以上のものが8本、50cm以上のものが5本、50cm下のものに至っては30本をこえ、花期には森を紅に彩る景観は人目を奪うばかりである。
 
口伝に依ると、白石神社境内の椿の森は遠く鵜の瀬山の山麓まで続く、広大な地域であったが、豊臣時代検地のとき、白石神社の境内地のみ切りはなして独立させたものだという。」
a1010137.jpg

さらに、山口誓子の句碑、「瀬に泌みて奈良まで届く蝉のこえ」があるとの記述がありますが、記事を書こうと思って調べて判ったことで、椿の古木も句碑も確認していません。
a1010141.jpg
 
ただ、ただ、社の放つ、異質な雰囲気に圧倒され、森の奥にも入り難い感じでした。
 
帰ってから、椿の古木のことを知り、県立美術館で鑑賞した「森と芸術展」での神の宿る「杜」のことを思い出しました。
a1010123.jpg
 
鵜の瀬、白石神社から 一旦、曹洞宗久屋山見昌寺まで南下し、Uターンして神宮寺、若狭彦神社、若狭姫神社を目指しました。 
a1010143.jpg
<見昌寺 サザンカの古木があったが枯れてしまったらしい・・・>
 
元々、遠敷を遡る道は鯖街道の一つだったと思うのですが、地図で見ると途中から自動車道路としては途切れているようです。
 
見昌時から暫く行きましたが、狭くなってきて、歩く用意して次回・・・と
a1010147.jpg
 
北上して神宮寺をお参りし、さらに若狭彦神社に向います。

若狭彦、姫神社は、延喜式神名帳に「若狭比古神社二座」と記載されている由緒ある神社になります。
a1010518.jpg

延喜式神名帳は927年に表されたもので、当時存在した2861社(3132座)の官社名を記したものです。
 
ここに記載されている神社は「式内社」と呼ばれ、その他の神社は「式外社」と呼ばれます。
 
式外社は要するに官社ではなかったということになるのだと思いますが、当時、官社以外の神社というのはどういうものがあったのだろうか・・・調べると次々に調べなくてはいけないことが広がってしまい、ちょっとお疲れ気味。
a1010613.jpg
 
「若狭比古神社二座」のうち若狭国一宮が上社彦神社、二宮が下社姫神社とされます。
 
官社のうち、国の中央の神官から幣帛(へいはく:お供えや現金)を受ける神社を「官幣」、地方の国司から幣帛を受ける神社を「国幣」と称します。
a1010535.jpg
 
官幣、国幣それぞれ、大、中、小に格が別れて受ける幣帛の量が決められています。

若狭比古神社の旧社格は「国幣中社」。すなわち地方管轄の中規模の神社ということになります。 
a1010620.jpg
 
現在、祭祀は下社(若狭姫神社)を中心に行われていて、神職も下社におり、彦神社は無人になっています。
 
若狭彦神社は畳・敷物業の神ともされ、現在はインテリア関係者の信仰も集めるのだそうです。
a1010545.jpg

冒頭にも書きましたが、上社若狭彦神社は若狭彦大神(彦火火出見尊)を、下社若狭姫神社は若狭姫大神(豊玉姫命)を祭神とします。
 
彦火火出見尊(日本書紀、古事記では火遠理命)は海彦、山彦神話の山彦にあたります。 
a1010540若狭彦神社.jpg
 
両社の神紋は「宝珠に波」で、彦火火出見尊が龍宮で手に入れた潮を自在に操る潮盈珠・潮乾珠に因むものなのだそうです。
 
Wikipediaに古事記と日本書紀の「海彦、山彦神話」の内容が記述されています。要約すると下記の様になるのかと思います。
a1010604.jpg
 
山彦は狩猟を、兄(海彦)は漁をなりわいとしていた。
 
ある時、二人の道具を交換して猟をしますが上手く行かなかった上、山彦は兄の釣り針を失くしてしまいます。兄は弟を責めて代わりの針を受け取りません。
a1010571.jpg
 
山彦は兄の許しを得られぬまま、釣り針を探し求めて海宮(龍宮)にたどり着き、海神(豊玉彦)の娘・豊玉姫(古事記では豊玉毘売命)と結ばれます。
a1010572.jpg

山彦は龍宮で3年を過ごしますが、兄の怒りを思い出し、豊玉彦に事情を説明し、針を探し出してもらいます。

山彦は兄に針を返すため、龍宮を後にします。豊玉姫と別れる際に、潮の満ち干を操る珠(潮盈珠・潮乾珠)を授かり、兄の対応に応じての珠の使い方を伝えられます。
a1010590.jpg
 
釣り針を返した後も兄はさらに山彦を苦しめますが、潮の満ち干を操ることにより、兄を懲らしめ、臣従させることを約束させます。 
a1010625.jpg

山彦の子を宿した豊玉姫は山彦の元を訪れ、出産します。
 
豊玉姫は出産時の姿を見ない様に懇願しますが、不安に思った山彦は覗いてしまい、豊玉姫が鰐(龍)の姿となり、出産している様子を見てしまいます。
 
山彦に見られたことに気づいた豊玉姫は悲しんで、妹の玉依姫を乳母として残し、龍宮に戻ってしまいます。
a1010566.jpg
 
生まれた子供は盧茲草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と言い、叔母に当たる、玉依姫と結婚して、4児をもうけます。
 
その第四子、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)が神武天皇に当たるのだそうです。
 
彦神社の脇に盧茲草葺不合尊を祀った若宮神社が設けられています。
a1010579若宮神社.jpg

彦神社をお参りして、姫神社に向います。

旧暦の9月10日に降臨されたということから、太陽暦の10月10日に遠敷祭りが行われるということで、姫神社はお祭りの最中。
 
境内に屋台がでて、人出があり、雑然としていました。
a1010676.jpg
<以降、姫神社>
 
若狭姫神社は安産・育児に霊験があるとされています。境内には子種石と呼ばれる陰陽石や、乳神様とよばれる大銀杏などがあります。
a1010706.jpg
 
下社である姫神社の社務所で、彦神社、姫神社双方の御朱印を頂けるとのことで、御朱印帳の見開きに双方の記帳をしてもらいました。
a1010680.jpg
 
今までのお寺の華麗な添え書きと異なり、素朴な字の添え書きでした。彦神社は「弌の宮」、姫神社は「遠敷明神」とあります。
a1010701.jpg
 
大分時間が経ちました。5時頃から「もみじmomijinokakikata152.jpgもみじ」の宴会が始まりそう。酒はまだ飲めそうもないけど、表彰式のお手伝いに五縁に向います。
 
瓶ビール一本だけ、ちびりちびり飲んでお付き合いをしました。少しだけ、酒復活の道を歩みます。
 
※降臨:二神が「示現」されたと記載されている記述もあります。
 
「示現」という言い方はこの地に降臨されたのか、いずれの場所に降臨されてこの地を訪れられたのかをあいまいに言うことになるのでしょうか。・・・「示現」を調べると神仏が姿を換えて現れることとあるので、「降臨」と余り変わりはないのかもしれません。
下記を参考にさせていただきました。
「若狭デジタル文化財」(小浜教育委員会)
雑誌「一個人」日本神様と神社入門
Wikipedia
posted by くまじい at 22:57| Comment(0) | 史跡巡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。